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パルラディ (ラーイェフ) : ミニ英和和英辞書
パルラディ (ラーイェフ)[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

パルラディ (ラーイェフ) : ウィキペディア日本語版
パルラディ (ラーイェフ)[ちょうおん]

本項はサンクトペテルブルクおよびラドガ府主教を務めたパルラディ(、1827年6月20日 - 1898年12月5日)を扱う〔 〕。モスクワ総主教座が廃止されていた当時、ロシア正教会聖務会院において、サンクトペテルブルク府主教として首席としての主教職を務めた(在任:1892年 - 1898年)〔モスクワ総主教座が廃止されていた聖務会院時代、聖務会院の総監は俗人。ここでいう「首席」()は主教メンバーのうちで筆頭という意味。首座主教()とは位置付けが異なる。〕。
== 生涯 ==
修道士となり修道名を授かる以前の俗名はパーヴェル・イヴァノヴィチ・ラーイェフ(〔 〕)。
1852年にカザン神学アカデミヤにおいてマギストル()の学位を取得〔〔「マギストル」は修士と訳される事もある。ロシアにおける学位「マギストル」の位置付けについてはⅡ.各国報告|リサーチ活動|音楽研究科RC|東京藝術大学芸術リサーチセンター成果報告2008~2012年度 も参照。〕。その後、ニジニ・ノヴゴロド神学校でタタール語などを講じた〔。
結婚後、1856年8月15日に司祭叙聖されるが〔正教会では神品機密の前(叙聖される前)であれば結婚出来る。叙聖後の結婚は不可。修道士の結婚も不可。〕、1860年末に妻が永眠してのち、1861年1月28日に修道剪髪を受け修道司祭となる〔妻との死別後に修道士になるケースは正教会で珍しく無い。妻が存命中でも、妻とともに別々に修道院に同時に入る事も可能。〕〔。
1862年2月18日、掌院昇叙〔。
1863年8月28日、サンクトペテルブルク神学校の生徒監()に就任。1864年12月2日、同校神学校長に就任〔。
1866年12月18日、ラドガ主教として叙聖される。以後、1869年7月15日からヴォログダ主教、1873年7月13日からタンボフ主教、1876年9月9日からリャザン主教として、各地を転々とする〔。
1881年4月12日、大主教に昇叙される。同年、カザン神学大学の名誉会員になる〔。
1882年8月21日、カザンおよびスヴィヤシスクの()大主教として着座〔。
1885年7月にはスラヴ系民族以外の民族、および分離派〔「分離派」という用語自体は蔑称のニュアンスがあるが、「分離派」には古儀式派だけでなく他のロシア正教会主流派に反発して分かれた諸派(霊的キリスト教等)も含むため、ここでは敢えて典拠にあるに則ってこれを直訳した。〕への牧会について検討する会議をカザンで主催した〔。
1887年9月29日、グルジアエクザルフとなる〔。
1892年10月18日、サンクトペテルブルクおよびラドガ府主教として着座。アレクサンドル・ネフスキー大修道院修道院長も兼務し、また聖務会院の首席としての主教となった〔。
1898年12月5日、72歳で永眠。アレクサンドル・ネフスキー大修道院に葬られた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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